賀川豊彦物語 賀川豊彦って、どんな人?

Vol.3 世界の平和を願って

大正から昭和にかけて、豊彦は全国を巡ってキリスト教の伝道に力を注ぎます。また、戦争の悲劇を繰り返さないよう、国際的な平和運動にも尽力。最後まで奔走し続けました。

関東大震災の救援活動~ボランティアの原点
1923年(大正12年)9月1日、死者・行方不明者10万人を超える関東大震災が発生。その直後、豊彦は救援活動を行うため東京へ向かい被災地の状況を視察しました。現地で資金が不足していることを知ると西日本各地を回り、現在の5,000万円相当もの義援金を集めたのです。
その後、東京でキリスト教団の協力を得ると、不眠不休で救援活動を開始。さらに生活に苦しむ人たちのために信用組合を設立したり、テント張りの教会を設置するなど、傷ついた心のケアや無料診断、妊婦保護、ミルク配給の活動も行いました。この活動を続けるために、ハルと前年に生まれたばかりの長男純基を呼び寄せ、生活の拠点を東京に移しました。

海外での活動と「神の国運動」
1924年(大正13年)、全米大学連盟に招かれてアメリカへ。その後、ヨーロッパ各国とイスラエルを聖地巡礼しながら伝道や講演を積極的に行ったことで、豊彦の名は世界に知られるようになります。
1926年(大正15年)春に帰国後、安部磯雄らとともに念願だった消費組合促進会を設立。翌月には安部、末弘巖太郎らと東京学生消費組合を設立しました。同年、豊彦一家は3年ぶりに住居を関西へ。11月には「百万人の救霊」を目標として「神の国運動」を提起し、伝道のため日本各地の巡回を始めました。
第二次世界大戦下の祈り
38歳を迎え、年号が「昭和」になった頃、「神の国運動」は、全国的な取り組みに発展を遂げていました。しかし1940年(昭和15年)第二次世界大戦が始まると、働き盛りの男たちは「赤紙」一枚で戦場へ。人員を確保できなくなった労働組合や学生消費組合は、ほどなく解散することになりました。
1941年(昭和16年)、日本基督教団の「キリスト教平和使節団」の一員として渡米。しかしアメリカ人の対日感情は、戦争の影響を受け、極めて悪化の途をたどっていました。帰国し、戦争防止のために祈とう会を行いましたが、願いは届かず日本は真珠湾を攻撃。ついに太平洋戦争に突入してしまいました。

平和のために尽くした豊彦の生涯
戦後間もない1945年(昭和20年)9月、豊彦が中心となり国際平和協会を設立。この運動は、世界連邦運動にまで進展し、1952年(昭和27年)には広島市で世界連邦アジア会議が開催され、豊彦は議長を務めました。その後も「神の望むすばらしい世界」を願って活動を続けていた1955年(昭和30年)、ノーベル平和賞の候補に。さらに、1958年(昭和33年)の第1回ICAアジア大会に、灘生協の田中組合長とともに日本代表として参加。生協活動への情熱は、晩年まで衰えることがありませんでした。
1959年(昭和34年)、伝道のため徳島へ向かう途中、心筋梗塞拡張症で倒れます。同じ頃、世界連邦建設同盟会で再び、豊彦をノーベル平和賞に推薦することが決議されましたが、翌1960年(昭和35年)4月、療養中の松沢の自宅で召天。71歳。神戸のスラム街に飛び込んでから50年が過ぎていました。

教育と福祉に注いだ情熱
貧困のため学校へ通えない子どもたちに心を痛めていた豊彦は、子どもたちの友達になることに努め、一緒に走り回ったり、おとぎ話や歌を教えたり、ときには海水浴に行くこともありました。
後に幼稚園や保育園を開設し、さらに「9つの子どもの権利」や「児童虐待防止論」などの著書を通じて、子どもの人権を守ることの大切さを訴えました。豊彦に共鳴した人々が開設した保育園は、今も京阪神や四国の各地に残っています。

Vol.4 灘・神戸生協の創設

  • Vol.1 スラム街の聖者
  • Vol.2 社会運動の先頭で
  • Vol.3 世界の平和を願って
  • Vol.4 灘・神戸生協の創設
  • Vol.5 生協活動でめざした平和
  • Vol.6 生協活動の広がり

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