賀川豊彦の思想に共鳴する人々が現れ、共に助け合うことで誕生した2つの生活協同組合「神戸購買組合」「灘購買組合」創設の足跡をたどります。
- 1914年(大正3年)、豊彦はニューヨークにあるプリンストン大学に留学。在学中に探求した学問は心理学、神学など多岐に渡りましたが、なにより豊彦が衝撃を受けたのは貧しい労働者が団結して行う労働組合運動でした。
当時、第一次世界大戦後の不況が続く日本では、工場の閉鎖や賃金の引き下げ、リストラなどで労働者の生活は困窮していました。豊彦はまず、労働者の生活安定をめざし、お互いに協同して生活を守り合う消費組合の創設を考えました。
- 1921年(大正10年)、 労働者救済のために購買組合の結成を呼びかける青柿善一郎や、市政や県政に携わっていた実業家の福井捨一とともに「神戸購買組合」を創設。現在の神戸市中央区八幡通に初の店舗を構え、米や醤油といった日常必需品の販売を始めました。さらに組合員宅を一軒一軒回って注文を聞き、配達する「御用聞き制度」もスタート。「神戸購買組合」と染め抜かれた印はんてんに、黒塗りの自転車で街を走り回る若者は「購買さん」と呼ばれて親しまれました。その後、「御用聞き制度」は、昭和50年代まで続きました。
- 同じ頃、社会事業に投資したいという実業家 那須善治が豊彦を訪ねてきました。豊彦は「慈善事業で社会不安は解決できない。社会を変えるには協同組合事業を通して社会貢献すべき」と伝えました。心を動かされた那須は、自身が信頼する実業家 平生釟三郎に意見を求めました。社会運動に注目していた平生は「消費組合は必要。組合を成功させるのはあなたのような人だ」と答えました。決意を固めた那須は「灘購買組合」を創設。初代組合長に就き、組合の運営に力を注ぎました。
- 生活協同組合が生まれたのは、1844年、産業革命下の粗悪品や量目不足品がはびこるイギリスのマンチェスター市郊外のロッチデールという町。始まりは28人の労働者が貧しい生活の中で資金を出し合って開いた、小麦粉やバター、オートミール、ろうそく、砂糖を販売するお店でした。その後、生活協同組合はフランス、ドイツを中心としたヨーロッパ各地から世界へ広がり、現在、組合員数は7億人以上。日本でも約2,500万人の生協組合員が活動をすすめています。